脱原発・エネルギー部会
反原発部会の誕生
脱原発・エネルギー部会は、1970年代半ばに反原発部会として誕生し、以来、絶えず日消連の運動の柱の一つとして原発問題に積極的に取り組み活動してきました。
1974年にはいわゆる「電源三法」が成立し、原発建設が国策として全国各地で強行されはじめました。そのころ原子力船「むつ」の放射能漏れ事故が発生し、原発や原子力船に対する不安が高まりました。こうした状況下で、77年10月には東京の市民グループが中心となり「反原子力週間」が共同開催され、日消連も呼びかけ団体の一つとなりました。同時期に原水爆禁止国民会議は「反原発全国一斉行動」を全国各地で取り組んでいます。
79年には、アメリカ・スリーマイル島原発事故、86年にはチョルノービリ原発事故が起こりましたが、「反原子力週間」を契機とした10月行動は脈々と引き継がれました。
電気料金不払い運動の展開
1990年に日消連事務所の電気料金の口座引き落としを停止し、指定日払いに変更のうえ、支払う際に東電側に原発問題などの質問事項を提出、回答を求める活動を毎月継続的に行っていました。
東京を中心として、1970年代半ば以降、石油の値上がりを口実とした値上げ分や電力会社の自民党等への政治献金に対する抗議の意思表示としての電気料金不払い運動が展開されています。
当時、こうした「不買・不払い運動」は、消費者一人ひとりの暮らしの場からのボイコットの意思表示で、国家にも資本にも対峙する「市民的不服従」を体現する「非暴力直接行動」であると捉えられていました。このような暮らしの場からのボイコット運動は、一時期欧米などでも活発に展開されており、社会を変えるだけの力を持ち、それはまた、資本のグローバリゼーションを超える躍動を持ち得ると考えられていました。
反原発の活動
2011年には東日本大震災が発生し、福島第一原発事故が起き、一瞬のうちに47万人もの人々が避難生活を余儀なくされました。
2012年7月の東京・代々木公園での脱原発集会には福島原発事故に怒った17万人もの人々の参加がありました。それ以降、反原発部会は以下のような東京を中心としたネットワークに事務局団体としてかかわり、共同開催する集会等の諸活動に参加しました。同時に、福島や青森・六ケ所村等々の原発現地の運動との交流を図ってきました。また、独自の学習会・講演会等も毎年度開催しています。
- 原発とめよう!東京ネットワーク
- 再処理とめたい!首都圏市民のつどい
- さようなら原発1000万人アクション実行委員会
- 六ケ所再処理工場に反対し放射能汚染を阻止する全国ネットワーク
エネルギー問題への取組み
地球温暖化が急激に進行し、近年の気候変動は凄まじく、危機的状況を回避する取り組みが喫緊の課題となっています。日消連が地球温暖化問題を取り上げたのは、かなり以前で、1989年10月には、日消連反原発講座「何かへんだな、地球を救う?原発-温暖化問題と原発を考えるー」を開催しています。そのほか、2012年の12月には、日消連のメンバーが全国自然保護連合のメンバーとともに東伊豆・天目山を訪れ、風力発電所の被害状況を確認し、住民の苦しみを広く伝える活動をしています。
日消連はこれらを受けつつ、2014年度から定期総会議案書に「エネルギー問題」を取り上げ、「反原発部会」を「脱原発・エネルギー部会」という名称に変更し、原発とともにエネルギー問題全般への取り組みを組織的に開始しました。
自然エネルギーについては、メガソーラーのもつ問題点を明らかにしつつ、エネルギーシステムの分権化、ボトムアップ化が何より大切で、地域の住民が参加して、「身の丈に合った暮らし」を地産地消で築いていくオルタナティブな社会をめざして運動を進めていきます。メガソーラーの現地見学は、2017年6月に数人の運営委員が埼玉県秩父市の太陽光発電で行っていますが、今後も積極的に広く現場を見て歩き、現況を確認し、課題を解決すべく討議を深めていきます。
現在、部会は原則として月1回開催しています。